ひそやかな音に耳澄ます [詩・本]

今朝起きて外を見ると、昨日あれだけ暖かかったのに、未だに雪が溶けない。全くしつこい(。-_-。) 幹線道路も二車線の片側には雪があって除雪も進まず。重機がないのでなんともしようがないんだけどね。新潟から除雪車がボランティアで入ってるらしいけどありがたい話だ。

オイラは大きな音が苦手で、それが理由でパチンコ屋に出入りしない(^_^) おかげで無駄な銭も使わないで済んでる(儲かると言い切る人がいるが、儲かった時の話しかしないのだから実態は負けてると思うんだけどね( ^ω^ )) 車で移動する時もラヂオもCDも点けてない事がほとんどで、ほぼ無音だ。お喋りな人も苦手なような気がする( ^ω^ ) ジェットストリームの城達也さんまでなら許すけど、太ってて声のデカイ男の声なんぞはとんでもない( ^ω^ )



ひそやかな音に耳澄ます<長田弘>

微かな音。もっとも微かな音。すべて静まりかえったなかに、しーんという音。遠くの音のようで、すぐ耳元に聴こえる音。とても稠密な音。静けさというのは、何の音もしないということとはちがう。静けさよりももっと静かな、もっとも微かな音が聴きとれることだとおもう。沈黙の音としかいえない音がある。その微かな音が、心音のように亢(たか)まってくる。空気がふっと濃くなってくるようだ。
<中略>
音がきっとおおすぎるのだ。おおすぎるのは、もともとなかった音だ。つくりだされた音だ。だがつくりだされた音は、じつは音をしりぞける音だ。つくりだされた音がおおすぎるということはしりぞけられた音がそれだけおおいということだ。つくりだされた音に蔽われるままになってしまった音。聴きとることのかなわなくなった音。消されてしまった音。耳にしなくなった音。いつか失われていった音。
とりわけ小さな音だ。古語に数おおくあって、今日の言葉に数すくないのは、小さな音を愛でる言葉だ。今は小さな音がバズ(ブーンという音)に、耳ざわりな音にすぎなくなって、日常にあって、ひそやかな音に耳澄ますということが、心を楽しますものとおもわれなくなった。心解かれるのは大きな音、それも他の音を圧する音だ。大きな音ばかりが世にはばかるようになって、日々の表情をつたえる音がすくなくなった。
たとえば夏目漱石が『永日小品』に書きとめた日々の音は次のような音だ。
泥の音。森の中の雨の音。雨のざーっという音。冬の半鐘の音。雨戸をはずして入って逃げた泥棒の足音。夜中に鼠が鰹節をかじる音。襖を閉める音。火鉢の切り炭のばちばち鳴る音。欄間に釘を打つ音。杉垣のつづく家から、微かに漏れてくる琴の音。正月に鼓をかんと打つ音。春の日に、子どもがヴァイオリンを擦る音。
火事の火の粉の飛ぶ音。激しく号鈴を鳴らしながら、馬の蹄とともに到着する(消防の)蒸気ポンプの音。青桐の枝を、植木屋が鋸で、ごしごし引いて切り下ろす音。窓の障子をがらりと開ける音。老いた猫の、くしゃみともしゃっくりともつかぬ、苦しそうな音。大通りをがらがら押されてゆく荷車の音。下駄の歯入れ屋が古い鼓を天秤棒にぶらさげて、竹のへらでかんかん叩きながら、垣根の外を通り過ぎてゆく音。
どんな小さな音だろうと、音は日々のなかにある時代の音だ。漱石の書きとめた日々の音のほとんどは、いまではなくなった音だ。時代のもつ文明の音が、街の音だ。人が昔に持つ記憶というのは、自分の耳で聴いた時代の文明の音の記憶なのだ。
<中略>
追い越してゆく音。耳をつんざくような音。叩いて音がするのが文明開化だとした明治の俚言(りげん)にならっていうと、日々に音をつくりだすのが文明のありようであるなら、文化というのは静けさに聴き入ることだとおもう。もっとも単純なことだ。だが、もっとも単純なことが、いまはもっともむずかしいのだ。次の単純な問題にこたえることがとてもむずかしいように。
問題。今日、聴いた音は、次のどの音か。風の音。樹の音。鳥の声。川の音。



オイラの散歩コースに利根川沿いのサイクリングロードがある。家の裏側で20mも行けば川だ。川幅は50m程、直ぐの場所に橋があって渡るのだが正月でもなければ水の流れる音は聴こえない。去年だったか台風来た時に増水した水が樹を巻き添えに流れていった時の音は凄かった(^_^)

それでも今日、聴いた音は?と聞かれると答えられないな( ^ω^ ) 考えてみれば子供の頃聴いた音はたくさんあるのに、どうして今は聴こえて来ないんだろうね。鈴虫、青松虫、雀、カエル、鳥の鳴き声といえばカラスくらいか(^.^) ツーリングで北海道走り回ってた時もフクロウや鷹?も目にしたけど鳴き声は聴かなかったような。夏に縁側で汗かいて寝転んでると蝉の声に吹き抜けてく風の音、風鈴、リヤカー引っ張ってく子供会の廃品回収の声、あぜ道を歩いてく靴の音、下駄履きだったりサンダルだったり、個人が特定できる歩き方の音。線路のレールに耳を押し当てて聴いてた音。今じゃ全然聴こえてこないんだね。

先日、中古不動産の物件見てたら数寄屋造りの8SDKの平屋で、1200坪!3500万円で売りに出てた。8人の人が検討中とアナウンスされてた。隠遁者の生活。赤城山の裾で市内までは20km程だ。あの場所には忘れてしまった音があると思う( ^ω^ ) それにしても8人もですか。憧れはあるけど、ちょっとした買い物や病気になったりするとなぁ~。もちろん銭はないので買えませんけどね。売りに出した方はどうされたんだろう。余計なお世話か(^_−)−☆






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