どうでも良い事なんだけど気になる事もある。 [なんか良いことないかな~]

やっと晴れてきた( ^ω^ ) 近所のマンションの人達も表に出て雪かきされてるようだ。先週の雪で流石に懲りたのだろう。オイラといえば、動物園のナマケモノ状態で少しずつ位置を変えちゃいるが、傍から見れば寝たきり老人のようだ。トイレに起きた程度ですな(^_^) こんなんでは床ずれ出来るかも。そろそろ起き出すべ(^ω^)

どうでもいいことなんだけど、気になる事が少しある。独り言ですわ( ^ω^ )

吉本隆明さんが宮沢賢治から関心が離れないで来た理由として「ほんとうの考え」と「うその考え」をどう分けられるのかという問題があったからだと述べられていて、多くの著作物、講演でも取り上げられている。オイラも何度か読み返すんだけど宗教が入るのでわからなくなってしまう( ^ω^ ) 少しだけ引用してみる。

ブルカニロ博士の言葉
「あゝわたくしもそれをもとめてゐる。<中略>みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだろう。けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどもしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる。」<一部抜粋> 銀河鉄道の夜より

また「けれどもほんたうのさいはひはいったいなんだらう。」とも主人公に話させている。とにかく「ほんたう」が良く登場する。

日本の教育者で牧口常三郎という方がいて、この方は戸田城聖さんと同じ時期に法華経に入信され、1930年に法華経と袂を分かち創価学会初代会長になられた方だ。宗教の価値を「実験証明」されることである、と主張されている。宮沢賢治も法華経の熱心な信者だったそうだ。賢治の銀河鉄道初稿が1924年なので当時53歳だった牧口さんの実験証明という言葉を知っていたかは不明だけど、法華経信者であり教育者でもあった牧口さんの思想を何処かで見知っていた可能性はありそうだ。

オイラは法華経がどういうものか?には興味はないが「法華経は、あらゆるお経のなかでもっともすぐれたお経である。法華経に説かれていることこそ、最高の悟りに行く道である。それ以前に説かれていたことは、ほんとうは全部まちがいである」とうたっている。ずいぶんだなと思わんでもない( ^ω^ )

信じる者は救われる。本当に神を信じるものは救われるのか?どういう形で救済は受けられるのか?十字軍のように同じ神を信じていないものは殺しても良いのか?「目には目で歯には歯で」(タリオの法)ハムラビ法典の中に書かれた無限な報復を禁じ同害までの報復までにせよとの法体系が基本であるはずのイスラム教。子供に爆弾持たせて罪のない弱者を皆殺しにするテロに正義はあるのか?同じ言葉は旧約聖書新約聖書にも書かれており、主の言葉には「右の頬をしばかれたら左の頬も差し出せ」と書かれている。広島・長崎に原爆を投下したパイロットはキリスト教信者だったのか?亡命物理学者レオ・シラードを中心にルーズベルトが開発にGOサインを出したマンハッタン計画、ルーズベルトとチャーチル首相との間で日本に原爆を使用することに同意したハイドパーク覚え書き。トルーマンに引き継がれた原爆は、いよいよ投下にGOサインが出て数名の参謀、大佐の口からエノラ・ゲイの搭乗員に伝えられる。命令を下した人間たちは広島に住んでいた市民35万人の約半分の人間を殺す事になるのだが、何か罪の意識を感じたのだろうか?16万の人間は瞬間に死んだ人は苦しまなかったかもしれないが、熱で焼けただれ、放射能という見えない殺戮兵器で戦争とは無関係な子供達までも長期に渡りジワジワと苦しみを与えながら殺す。しかも二代に渡ってだ。長崎にも同様の苦しみを与えている。種子島以来敬虔なクリスチャンの多く住む長崎にも後脚で砂をかけるかのように無差別爆撃を仕掛けた人間はクリスチャンではなかったのか。本当に信じるものは救われるのか?

『ヨブ記』と云うのがあって、神が「ヨブは優れたほんとうの信仰者だ。だからお前がどんなに悪いことをしてもヨブの信仰は変わらないだろう」とサタンを煽るわけで、サタンはこれでもかとヨブにこれ以上世の中に酷いことは無いぐらいの事をするわけです。神が悪魔を焚きつけて、悪魔が盗賊団にヨブの財産、使用人、家畜、子供たちまで皆殺しにしてしまう。最後はヨブの全身を皮膚病でいたたまれないようにしてしまう。「これほど死にたいのに、神は死なせてくれない。なぜ生かしておくのだ」とヨブは訴える。

ヨブは、神とは信仰する者も反逆する者も同じように残酷な目に合わすものだという認識と、これ以上の受難には耐えられないわけだから、死にたいのに死なせてくれない。こういう神がいったいあるだろうか。という言い方をすると、ヨブの友達は「神を恨むなんておこがましい。神が救ってくれるなんて、もともとありえないんだ。おまえの訴えていることは、人間と人間の間だけで成り立つことであり、通じることであり、報いられることである。人間関係で出てくる訴えや妬みや絶望などは、神の次元には全然届かないことである」というわけです。<一部抜粋>宮沢賢治における宗教と文学より

人が人として生きるのは誰かに祈りを捧げることではなく、愚直なまでに人の役に立つために積極的に率先して身体を動かす。映画「ポセイドンアドベンチャー」でジーン・ハックマン演じたスコット牧師。船底でただ「祈りましょう」と祈りを繰り返すだけで助けを待つ神父に「バカげている!生き残るのだ。行こう!」と自らの命は自らの力で切り開くのだとリーダーシップを発揮する、カッコ良かったなぁ~( ^ω^ ) そんなのは大変なのでリーダーを補佐する心やさしきマーティンぐらいが自分にはあっとるような気がしますわ。もちろん見返りは求めずにね(-_^)

わけわからん事はほっといて、雪かき手伝ってきましょうかね(^_−)−☆

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