雑感(2014/6/26) [詩・本]

今朝、長友の涙を見た。悔しかったろうな(。-_-。) オイラもつい目頭が熱くなった。泣くほど悔しがる心意気や必死さを持ち世界と互角に戦えると長友本人は思っていたはずだし俺にボールよ回って来いと思ってたと思うんだよね。内田だってそうだと思う。強いチームで常時出場しキャプテンマークすら付けてピッチに立ち、世界の一流どころと常に戦っている選手は「俺は負けていない!」という自負がある。だからこその涙だろう。でも全員がそのレベルにあるわけじゃないってことなんだと思うな。W杯は少しづつ階段を上がって行くっきゃないと思うよ。
長友も内田もW杯優勝が「畢生の大仕事」でしょう。少なくともナデシコは世界一になったのだから日本人には無理だと考える必要はないでしょう。出るからには目指さなきゃ( ^ω^ ) それが指導者としてなのか選手としてなのか、死ぬまで巡って来なくったって、諦めても諦め切れない夢なんでしょ!生きてる間はなんとしてでも応援すっから( ^ω^ )


「畢と默と表裏」


「畢(おわり)」、猶(なお)
「華(はな)」の面影宿すかな



黒い犬が黙っています
文字通りということもあるのです

表裏

「裏」の中に「表」があります
裏を見れば表もわかるのが世の常
「表」だけに目を凝らしても、その中に
「裏」を読みとることはできません

吉野弘『漢字遊び』より


畢生(ひっせい);命が終わるまでの間 畢生は生涯をかけて行う大きな仕事や、そのための努力などいう場合に用いられる。畢生の大事業
畢竟(ひっきょう);さまざまな経過を経ても最終的な結論としては。つまるところ。結局。「―人は死を免れえない」 ひっきょうするに【畢竟するに】

畢(ひつ)という字の書き順はどう書くのだろう?畢竟、畢生などの文字を目にする事はあっても書いた事などない(^_^)

吉野さんの詩集のおまけに、これまた大好きな山田太一さんがエッセイを寄せられている。

『貴にして重い』より

「畢(おわり)」という2行の詩がある。これが今の詩になるところまでの過程を吉野さんは書いています。
はじめ、「畢(おわり)」という漢字は「華」に似ているな、と思うのです。思っただけで一年近くたって、
「もう畢(おわ)りですが、少し前までは華だったような気がしています」という二行が生まれます。次に
「私は「畢(おわり)」ですが、ひととき、「華」だったこともあると無理にも思おうとしています」
となり、更に、
「「畢(おわり)」が、自分の中に 「華」を探しています」
となり、次に、
「自分の中に「華」のひとときがあったという思いを「畢(おわり)」は捨て切れずにいます」
「「畢(おわり)」の中に、「華」のようなものをチラと見るわびしさ」
というような迷いを経て、
「「畢(おわ)」るとも、「華」の面影宿すかな」
といういま詩集にある姿になるのですが、それでも尚、
『「畢(おわり)」、やや「華」の面影残すかな』
としてみて、前に戻したのだそうです。
<一部抜粋>

ポッコリと湧いて出てきたわけではなく熟慮に熟慮を重ねて、それでもまだやり直してみる。だからこそ吉野さんの詩集を「貴にして重い」と評される気持ち。わかりますわ。サッカーだって、「畢(おわ)」ったわけではなかんべ。なんか日本人にしか出来ないものがあんじゃねぇ〜のかな。諦めないでけろ (^_−)−☆

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